こういう時って幸せだな

これは、私が講師として活動するために身につけておいた方がいいなと、(はく)(おぼろ)について学んでいた時の話。
兄ちゃん──伊藤智孝(いとうともたか)先生に呆れ顔をさせるほど、私は暇さえあれば質問していた。
単純に知らないことを知る楽しさもあったけれど、そこから垣間見える兄ちゃんの世界観が面白くて。

この時も就業時間ギリギリまで付き合わされていた兄ちゃんは、最後の質問が終わったと同時に背伸びをしながら「腹減ったなー」と独り言のようにもらした。
続けて「何か食いに行くか?」と聞かれ、心臓が跳ねる。

ご飯に誘ってくれる男の人って、何でカッコよく見えるんだろう? なんてくだらないことを頭によぎらせながら、問題を解いている時に見た兄ちゃんの表情を思い出す。
兄ちゃん、何だか少し疲れてるように見えたんだよね。それをそのまま聞くと、
「疲れてても腹は減るからなー」
と身支度を整えながら答えた。

とはいえ、これから店に行き、注文して料理が運ばれてくるまでには早くても1時間だろう。質問で兄ちゃんの時間もいてしまったわけだし、ここは一肌脱ぎたい。

「あ、じゃ、じゃあ、私の部屋に来る? 残り物になっちゃうけど、今日すんごく大量に作ったから兄ちゃんが食べる分くらいは余裕であるし」

兄ちゃんは言葉を失って、私の顔をまじまじと見つめた。
おかしなことを言ってしまっただろうか? その沈黙の意図を探るべく見つめ返すと、兄ちゃんはおもむろに口を開く。

「……いいのか?」

何だ。遠慮してたのか。
私は元気よく「うん!」と答える。

「お……」

しかし兄ちゃんは、再び謎の言葉を残したまま口をつぐんでしまった。

「お? おいしくないから嫌だ?」
「何だよそれ」

思いついたことを言うと、呆れた顔をしながら返し、続けて「うまいよ」と嬉しい言葉までつけてくれた。

「えへへ、ありがと。お……おかずは何?」
「違う。けど、気になるな」

また外したようだ。けれど今度は何だか楽しそう。

「好きなもの作り置きスペシャルデーだから、炊き込みご飯とおつゆと、煮魚とお新香と……あ、もつ煮!」
「もつ煮」

笑われてしまった。

「いいな、それ」
「よかった」

好きなものだったのか、これで来ることは確定だろう。私は、隣の建物にある自分の部屋へと歩みを進める。
その間も、言いかけた言葉の謎を解き明かそうと考えを巡らせる。

「お……お……襲わないよ? 兄ちゃんのこと」
「何でそうなるんだよ。逆だろ、普通」

次は盛大なため息をつかれてしまった。難しい。

「いやだって、兄ちゃんは襲ってこないでしょ」

別に襲ってきてもいいけど。という言葉は飲み込んでおいた。こんな恥ずかしいこと言えるわけがない。好きって言ってるようなものだ。
っていうか、これが間違っていたらとんでもなく頭の中がお花畑に思われてしまう。

頭の中を高速で駆け回っていた妄想に、顔が強張こわばる。自分が今どんな顔をしているかもわからないまま、兄ちゃんに視線を向けると、相変わらず何を考えているのか表情は変わらず私を見つめていた。
何だか心の中を見透かされるようで、私は謎解きの続きをするようにはぐらかした。

「んー、何だろ?『お』から始まるんでしょー」

すると兄ちゃんは、ほんの少しだけ息を吐いて、
「お邪魔します、かな」
と言った。私は来てくれる嬉しさと真意を悟られなかったという両方の意味で声を弾ませる。

「やった!『お』礼ができて嬉しい」
「まだ続けるのか? それ。……お、『お』わり」
「うまいなー」

兄ちゃんは何だかんだ言って、いつも付き合ってくれる。

特別な何かにはなれないけど、こうした時間が幸せだった。
私のために使ってくれた時間。今までの絆が私にはある。
それで十分だった。

ありがとう。
心の中で、そっと囁いた。

──智孝と有羽の言葉遊び

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