理性と欲望の天秤

家の留守を丸一日預かる。
そういったことは、家族と暮らしていてたまに起こることだろう。それは伊藤智孝(いとうともたか)にも言えたことであり、彼は妹と二人で二日間を過ごすことになった。
しかしこの妹、兄に家事をやらせるどころか、揉め事の種を蒔き散らかし困った顔を見るのが好きという変な趣味を持っていた。
「有羽(ゆば)、面白いゲーム買ったの。一緒に遊ばない?」そう言って智孝の彼女を招き入れたのだった。

昼前から部屋にこもったきりだった有羽たちだが、智孝が夕飯の仕度をし始めた頃、有羽だけが台所に顔を出した。

「兄ちゃん、何か手伝うことない?」
「んー、特にないな」

少し考えて智孝が答えると、有羽は残念そうな声を上げながらおずおずと近寄った。そして調理中である鍋を覗く。

「あ、これにお酒入れるとおいしくなるよ。入れた?」
「いや。じゃあ入れるか。確かその下の戸棚にあるはずだけど」
「ここ? えーっと」

屈みながら戸棚を開けちらりと中を探るも、一見してはどこだかわからない有羽。その旨を伝えると、隣からひょいと智孝が顔を覗かせる。

「その奥にあるのがそう」
「あ! これだね。はい」

料理酒を手に顔を上げると、智孝の顔との距離に有羽は胸を一つ高鳴らせた。そして渡そうとしてた酒を一旦自らの膝の上へ乗せ、目を閉じる。

「ん」

それがキスをして欲しいという合図であることに一瞬驚いたものの、智孝は先程の有羽と同じ言葉で頷き、唇を軽くのせる。
照れ隠しから有羽が目を開けると同時に料理酒を取り、立ち上がる。顔を向けようとしない智孝に寄り添って、有羽はくすくすと笑いを零した。
それから数分後。有羽は少し不安そうな、緊張を含んだ口調で智孝を呼びかけた。

「もし、あと数時間で私ともう二度と会えなくなるとわかってたら──キスで終わったりしないよね?」

それに対し、智孝が吹き出したのは言うまでもないだろう。

「どっからそういう考えが浮かぶんだ?」
「例え話だよ。ね、兄ちゃんならどうする?」
「どうって……時と場合によるだろ」
「う~ん、例えばこれから戦地へ赴かなきゃならなかったりとか、相手の身代わりとなって命を落とすとか」
「おーまーえー。それ、思いっきりゲームの影響だろ? 里美の(さとみ)奴、変なことばっかり教えるんだから」

ずばり的中した智孝の指摘に有羽は息を呑む。
確かに、智孝の妹である里美と、つい先程まで遊んでいたテレビゲームの影響は強く受けていた。でも、有羽にとってそれはきっかけでしかなかった。

幼い頃からずっと一緒に過ごしてきたとはいえ、一応お互いの気持ちが通じた恋人同士なのだ。しかもそうなってからどのくらいの時が経っただろうか?
有羽は智孝ともっと深いところでつながりたいと願うようになったのだった。

「私、今日兄ちゃんの部屋に泊まるから」

突然の告白に智孝は笑いをひきつらせたまま固まった。有羽の言葉を理解するのに数秒かかり、智孝は表情を変えないまま口を開く。

「は? 何言ってるんだ、お前」
「今日は兄ちゃんと一緒に寝るって言ってるの」

やはり聞き間違いではない。有羽は今夜家へ泊まり、俺と一緒に寝ると言っている。つまりそれは……。
智孝は頭の中を整理しつつ、問答を繰り返す。

「ちょっと待て。意味分かってるのか?」

もしや男の部屋に泊まるということがどういうことか分かってないのだろうか? それはそれである種の虚しさが込みあがってくる。でも、先程の質問を考えれば、わかってないということはなさそうだ。それを証明するように、有羽は答える。

「分かってるよ。子供じゃないんだから」

智孝は困ったように有羽を見つめる。

「子供じゃないからまずいんだろ」

有羽は智孝から視線を外し、頬をほんのりと赤く染める。微かに躊躇いを見せ、彼女は言う。

「兄ちゃんはその……私ともっと一緒になりたいって思わないの? 私は思ってるよ。兄ちゃんともっとたくさん話したいし、一緒にいたいし、手つないだりキスしたりとか、それ以上のことも──」

ぐつぐつぐつ。
鍋と一緒に頭が沸騰するようだった。
智孝は有羽の言葉を待つ。

「私ばっかり兄ちゃんのこと考えてて、兄ちゃんは平気な顔してて……なんかズルイ」
「ずるいずるくないの問題か?」

うまく自分の気持ちが言えずに出た言葉に、智孝はすかさずつっこむ。
有羽もそんなじれったさから、口調が強くなる。

「だってわからないんだもん。兄ちゃんが本当に私のこと好きなのか。か、彼女として見てくれているのかなって」
「見てるに決まってるだろ?」
「でも……態度に全然出てない」

さっきキスしておいて、そういうことを言うのか。智孝は一つ大きい息を吐いた。有羽はというと、しばらく黙り込んだあと低く呟く。

「勇気がないんだ」
「何?」

有羽は決意を固め、勢いよく顔を上げる。

「女の子がここまで言ってるのに! 兄ちゃんの意気地なし! 私、絶対帰らないからね。いーーーっだ!!」

その勢いに圧されたじろぎつつも、智孝はくるりと踵を返す有羽に声をかける。

「どこ行くんだよ?」
「里美のとこ。泊めてもらえるように頼んでくるの」

あいつ──本気なのか?
有羽が去った後から鍋に視線を移すも、智孝の視界に料理が入る余地はなかった。有羽の言葉とその意味がぐるぐると頭の中を回っている感じだ。

それは三人で食卓を囲んだ時も同じで、明らかな動揺が智孝にも有羽にも表れている。「ご飯がおいしい」とか「今日は寒かったね」とか、どうでもいい会話が交わされたかと思うと長い沈黙が訪れたりもする。
そんな中、先手を切ったのは里美である。

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