いつの間にか恒例となっていたお隣さん同士での花見。初めの頃はお弁当を作ってと、本格的なものであったが、次第に互いの都合がつかなくなり、夜の散歩がてらにという気軽なものへと変わっていった。そして、それに参加するメンバーにも変化が伴う。特に智孝(ともたか)の家庭は兄弟が多い。三男二女の五人兄弟で、智孝はちょうど真ん中の次男だった。
今年は智孝とその妹である里美(さとみ)、そして彼女である有羽(ゆば)の三人で花見となった。
比較的広めの公園に赴いた一行は、宴会場と化している広場から少し離れた道───アーチを描いている桜の木の下を歩いていた。
一年に一度の見事な咲き誇りに、各々が胸に感動を宿す。
ふと、桜に目を奪われたままの有羽が誰とはなしにある提案をもちかけた。
「ねえ、花びらが落ちる前にキャッチできたら、願い事が叶うって言うよね? やってみようよ」
うきうきと話す有羽に、少々呆れ気味の智孝。その理由は次の言葉に含まれていた。
「それ、秋には落ち葉で言ってなかったか?」
「いいのいいの。願い事が叶うチャンスは多いほうがいいでしょ?」
里美に声をかけ、花びらとりを開始する有羽。ノリのいい彼女は有羽の突然の案にもひるむことはなく開始数十秒で熱中している様子を見せた。
簡単なように思えてこれがなかなか難しく、身軽な花弁は風に乗ってあと一歩の所で方向を変え、二人の手に包まれることはなかった。
「下手くそだなー」
「あ! そういうこと言うならやってみてよ」
きゃーきゃー騒ぎながら、まだ一枚も取れない有羽たちに向かって、笑いながら声をかける智孝に、有羽はふぐのように頬を膨らませて抗議する。
ここで智孝も手こずれば面白いものを、そういういったからかいの種を蒔かないのが何とも彼らしい。有羽の頭上をタイミング良くゆっくりと舞い降りる花びらを、そっと手中におさめた。
「簡単じゃないか」
そのまま自分に花びらをプレゼントしてくる智孝に有羽は納得のいかない表情を浮かべていた。
「何だよ」
「だって自分で取らないと効力が半減するかもしれないし」
「願い事の内容にもよるんじゃない? お兄ちゃんがやってくれそうなことお願いしてみれば?」
やっと掴んだ願いの切符を手に、二人の元へ戻ってきた里美はそんなことを言った。智孝は「余計なことを」と顔に表し、有羽は腕を組んでしばし考え込んだ。
小さく唸りながら動く様子を見せない有羽だったが、何か思いついたのか目をキラキラと輝かせ顔を上げた。
「一個だけあった! 叶えてもらえそうだけど、普段はなかなかお願いできないやつ」
「何?」
「お姫様抱っこ! 背の高い人の目線になってみたい」
それを聞いた途端、智孝ががっくりと頭(こうべ)を垂らしたのは言うまでもないだろう。もはや言葉を失った智孝は頭を押さえたまま動こうとしなかった。
何でそんな願い事を今するんだ?そう疑問に思っても、予想外の行動を起こすのが有羽であり、また聞いたところで期待できそうな答えは返してこないだろう。
しぶる智孝に痺れを切らしたのは、里美の方だった。親友の顔を見て、何とか助け舟を出そうと思ってのことだ。
「ねえ、有羽。背の高い人の目線になりたいだけなら、裕(ゆう)にやってもらったら?あいつなら背高いし、やってくれるわよ」
それに、もうそろそろ来るだろうし。里美はそう言って、公園に着く前に電話をしていた自分の彼氏を引き合いに出した。
もちろんいたらいたで本当にやらせるつもりはなかったが、こう言えば兄が何かしら動くと思ったからだ。
里美の真意に気付いているのか、有羽はその助言に「なるほど」と手を叩く。すかさず智孝が嫌そうな顔をして口を挟んだ。
「なるほど、じゃない。そこで納得するなよ」
「さあ、どうすんの? お兄ちゃん」
悪戯そうな笑みを浮かべる里美と、期待の眼差しを向ける有羽。智孝は一つため息をついて有羽に問いかけた。
「……お前は恥ずかしいというのがないのか?」
「えー? じゃあ、裕が来たら里美もやってもらうってことで」
「余計に目立つだろ」
本当に予想外の答えを返してくれるものである。
いつまで経っても変わらない二人の会話にくすくすと笑いながら里美が提案する。
「いいよ、有羽。私、あっち行ってる」
「え? 何で?」
「何でって……。ほら、お兄ちゃんむっつりだから、誰か見てると燃えないのよ」
「聞こえてるぞ」
「あはは。冗談冗談。裕、迎えに行ってくる」
こそこそと何を耳打ちするかと思ったら……すっかり女子ペースに巻き込まれた智孝は呆れたように息を吐いた。
そして言葉通りに公園の入口に向かって歩みを進める里美を見送り、周りに人の姿がなくなったのを確認すると、智孝は有羽を見つめた。
「で?」
「はい、お願いしまーす」
「本当にやるのか?」
「うん!」
かといって、タイミングをとり損ねた智孝は有羽と見つめ合ったまま動こうとしない。改まってするようなものではないし、やるからには勢いが足りない。
何となく智孝の考えが伝わり、有羽はきっかけを作ろうとくるりと背中を向け、嘘泣きをし始めた。
「うう、兄ちゃんはもう私のこと好きじゃないんだ。いいもんいいもん、裕にしてもらうから──きゃ!」
話の途中にも関わらず軽々と抱き上げる智孝。期待はしていたものの、実行するとは思っていなかった有羽は一瞬パニックになり声を上げた。
無言のまま智孝を見つめる。すると彼は真剣な眼差しを向けていた。
「そういうの、嘘でも言うなよ」
きっかけを作ってくれたことはありがたいが、その内容にはいささか嫌気を感じる。
「ごめん……怒った?」
「まだ怒ってない」
思ったよりも有羽がしょげてしまったので、智孝は笑顔を浮かべてそんなことを言った。有羽も智孝の冗談に気付き、笑いをこぼす。
不意に視線が絡まり、有羽は穏やかに微笑んである言葉を口にする。
「今、私のこと見てるね」
「? そりゃそうだろ」
「たまにね、考えちゃうことがあるの。兄ちゃんの見つめている先に、私の姿はあるのかなぁって」
どこか寂しげに、そして不安を含ませた口調だった。智孝は有羽がそんなことを考えていたとは露ほどにも思っていなかったので、返す言葉に時間をとられる。そんな智孝の様子に気付いた有羽は、慌てたように言葉をつなげた。
「あ、いや、別に兄ちゃんを信用してないわけじゃないの。私がちっこいから……あー、変なこと言ってごめんね。もう下りるよ、ありがとう」
何となくしんみりとした空気が流れている気がして、有羽はそれを変えるためにも行動を起こした。
せっかくの25センチ上の世界を見られるチャンスだったというのに、堪能しないまま終えてしまった有羽。お姫様抱っこを希望した理由というのも、もしかしたらこの不安を解消させるためだったのかもしれない。
智孝はそんな愛しき人の不安を取り除こうと、優しく腕の中へ包み込んだ。
「大丈夫だよ。俺はお前のことだけを見てる。それだけ、俺の中では大きいよ」
まさか智孝の口からそんな囁きが聞けるなんて夢にも思わなかった有羽は、驚き息を呑む。顔を見ても、からかっている様子は微塵も感じさせない。まあ、彼がこの手の冗談を言わないことは重々承知しているのだが、それでも疑ってしまうほど信じられないことなのだ。
有羽は、今のは聞き間違いではないことを確かめるために、お願いをする。
「もう一回言って?」
「やだ」
「何でよー! ケチ」
抗議はするが、いつもの智孝にどこかほっとする自分もいた。智孝は意地悪そうに言う。
「願いは一枚につき一回なんだろ?」
してやられてしまった有羽は、もう一枚とると意気込んで両手を伸ばした。しかし、智孝はそんな有羽の横を笑いながら通り過ぎる。
「さあーて帰るか」
「あー! 待ってよー!」
小走りに智孝の元へ向かう有羽は、そのまま彼の左腕にしがみつくようにして腕を絡ませた。
その時ちょうど風が吹き、花弁を躍らせながら二人の間を駆け巡る。
少し強めの風は二人の視界を遮り、そして願いのチケットを置いていった。