それは数時間経った今も変わらずにいた。その間に後片付けをしようが、風呂に入ろうが、気持ちはさっぱりしない。
悶々とした気持ちを抱え、智孝はベッドの上に寝転がった。うまく整理できない頭の中とは正反対に、体はベッドに沈んだままだ。月明かりで浮かぶ影も、何の変化も見せない。
ふう、と一つ息を吐くと、ドアが二回ほど軽く叩かれた。返事はせずに視線だけを向ける。しばしの沈黙の後、ためらいがちに声がかけられる。
「兄ちゃん? あの……有羽です。入るね」
その声の主に智孝はびくりと一瞬体を強張らせ、慌てて上半身を起こす。まだ頭の回線が混乱している状態で、誤解を解くことが出来るだろうかと緊張しつつも口では一言、了解の言葉を返していた。
ゆっくりと開かれるドアに比例して、鼓動が早くなる。それは有羽の姿を見た時も変わりなく、心臓が頭にあるのではないかと錯覚するくらいだった。
里美のパジャマを着た有羽は、微笑みを浮かばせ口を開く。
「隣、座っていい?」
「あ、ああ」
返事をしてから自分がどこにいるかを認識した智孝は、しまったと口を固く結ぶ。しかし、有羽はというと、一向に気にしない(というか気付かない)様子で静かに近づいてくる。
きし、とすぐ側で有羽の重みがベッドに加わった。膝の上で組まれた手は、有羽の気持ちを表すように力が込められたり緩められたりする。
「あ、里美ね、頭冷やしてくるって外に出て行っちゃったみたい。私がお風呂上がった時には部屋にいなくて、そうメモが置いてあったの。何か、お菓子を大量に買ってくるみたいなことも書いてあったけど」
取り繕うように有羽は明るく笑ってみせる。しかしそれも付け焼刃となり、有羽の笑い声が消えると変な緊張が部屋に広がった。
「さっきはごめんね。里美も言い過ぎたって反省してる」
「いや、俺の方こそ言い過ぎた」
「あのね……兄ちゃんを困らせたくて泊まるって言ったんじゃないよ? もっと一緒にいたかったから……なんていうか、その」
言葉を切り、有羽はすっと智孝の手を握った。智孝はその行動にも、有羽の手の冷たさにもドキリとする。
「こうしてると気持ちいいんだよね。あったかいっていうか、ほっとするっていうか。だから、えっと……抱きしめてもらったり、キスするだけでも幸せな気分になれるから、その先は一体どうなんだろうって思って」
きゅっと力が加わり、有羽の緊張と気持ちがダイレクトに伝わる。
二人の間に言葉は交わされず、代わりに繋がれた手の中でしっとりと汗がにじんだ。
それからどのくらいの時が流れたのだろうか? きっとほんの数分だったのかもしれない。だが、二人には一秒が何倍にも感じられた。
智孝が有羽の名前を呼ぼうとした時、はっと我に返った彼女は慌てて手を離した。
「や、やだなー。私ってばエロガキだね。あ、わかってるよ。こういうことはお互いがもっと想い合わないとダメなんだって。あー……今のは忘れて! なんか、恥ずかしいね私。あはははは」
淡い月の光でも、彼女の頬が赤く染まっているのがわかった。そして俯く時に笑顔が消え、泣きそうになっているのも。
「ホント、兄ちゃんを困らせるつもりなんて全然ないのに。……好きなだけなの。大好きなんだ、兄ちゃんのこと。それだけ──ごめんね」
精一杯の笑顔を向ける有羽。潤んだ瞳が智孝の胸をしめつけた。
言葉にならない感情が溢れ出し、智孝は愛しい彼女を腕の内におさめた。
「謝るな」
行動と同時に耳に届いた一言。有羽はその言葉の意味を尋ねるようにそっと顔を上げた。
「謝るなよ。どう考えたって、不安にさせるような行動しかとらなかった俺が悪い」
顔は見えないが、抱きしめられている力強さが智孝の気持ちを物語っていた。
「あんなこと言うつもりじゃなかった。里美の言う通りなんだ。俺は──お前に否定されるのが怖かっただけだ」
「え?」
「お前にどこまで触れていいのか、どこまで愛していいのか……後悔するって言ったのは、俺に抱かれてお前が傷ついたり、相手が俺じゃなければなんて思われたら──立ち直れなくなる、そういう意味なんだよ」
智孝の告白を一つ一つ心に刻み付ける有羽。しかし、安堵がこんこんと溢れ出し、それに揮えるように有羽は智孝にしがみつく。
「じゃ、じゃあ、私、兄ちゃんを好きでいていいの?」
「ああ」
涙がつっと頬を伝った。
「私のこと、嫌いになったんじゃない?」
「嫌いになんて、なるわけないだろ」
「こ、怖かったぁ。兄ちゃんに嫌われたかと思って……私と付き合ったこと、後悔してるのかなって。迷惑な存在だって思われてたらどうしようって、すごく怖かった」
その言葉を表すように腕の中で震え続ける有羽。智孝はそんな不安を取り除くように優しく包み込んでいた。そして一言「ごめん」と告げる。
「ううん、安心した。それに兄ちゃんの気持ちが聞けて嬉しかったよ。それと──私を抱きたくないわけじゃないんだなってわかったし」
少し引っ張られたシャツと呼応するように、ドクン、と大きく心臓が高鳴った。
「あのね……」と続く先の言葉に、くすぐったさを感じる。
「兄ちゃんは、私にとっての初めての人だよ。初めて一緒に遊んだ男の子だし、初めて登下校した時もそう。小さいこと挙げていったらきりがないけど、初めて付き合った人も、キスも、こんなにドキドキするのだって、全部兄ちゃんが初めてなんだよ?」
有羽は智孝を見つめにこりと微笑む。
「そのたくさんの『初めて』を後悔したことなんてない。兄ちゃんでよかったって思ってる。出来ればこれからも、私の初めては兄ちゃんにしてもらいたいなって、そう思ってるよ。だってね、私幸せなんだもん。すごーく幸せ。だからお願い、私を傷つけるなんて思わないで。これからもずっと、私の初めての人でいて。私を──幸せにして」
「有羽……」
その時は、何も考えられなかった。
ただ強く、有羽を愛したいと思った。
暗闇に射し込む一筋の光のように、彼女の存在は求めてやまないものだったのだ。
重なり合った唇から、お互いの気持ちが流れ込み、相乗する気がした。その永遠とも思われるような時の中で、ふと視線が絡まった。
「もっと」
そう言って、有羽は口づけを交わす。
「もっと、いっぱいして」
儚く、溶けて消えてしまう粉雪のようなキスが、何度となく智孝に贈られた。それは次第にどちらから求めているのかわからなくなり、智孝の中でカタリと何かが傾いた。
きっとそれは、例えて言うなら「理性と欲望の天秤」。
どんなに重くとも、普段は決して欲望の方へ傾かぬよう、支えを置いていたのだった。
その支えを彼女が外した今、沈んだ皿は──ひとつしかない。
END