あなたとこの空の下

「はい、智孝さん」

 箸で挟んだ卵焼きを彼の口元に運ぶと男性はそれを当たり前のようにパクリと食べる。

「おいしい?」
「ああ」

 智孝は笑顔で頷き、その表情を受けて彩の微笑みも輝きが増した。
 恋人達はデートの昼食場所として有名かつ広大な公園を選んだ。天気も良く、過ごしやすい陽気とあって園内には意外とお弁当を広げる様子が見て取れる。
 二人は芝生の上にレジャーシートを敷くと隣り合うように腰を下ろした。
 互いに食べさせあう姿は端から見れば完全な『バカップル』だが二人には目の前の相手しか見えていない。

「智孝さん、次は何を食べますか?」

 弁当箱に視線を落としている彼女が問い掛けると名前が呼ばれた。

「彩」

 はい、と返事をして顔を上げると目の前に智孝の顔があった。さすがに驚く彩を引き寄せると

「お前が食べたい」

 そう言って智孝の唇が彼女の同じ場所に触れた。
 彼は柔らかさを楽しむように深く味わい、そのまま彩の身体を倒していく───。

 

 目を開けると自室の天井が見えた。
 夢の中の出来事だというのに、唇に感触が残っている気がする。

「(やだ…どうしよう)」

 蒲団の中で彼女は火照る頬に手を当てた。
 今日は恋人である智孝の家で勉強をみてもらう事になっているのだ。
 しかしこんな夢を見た後では彼の顔をまともに見られない気がする。だからといってキャンセルするのは勿体無さすぎる。
 彼に会いたい、でも恥ずかしい。
 蒲団から起き上がり、顔を洗って朝食を済ませ身仕度をしながらも心の中で葛藤が続いていた。
 だが、当然のことながら彩はどんなに悩もうと彼の家へと赴くことにするのだ。
「(あれは夢だから。智孝さんは絶対あんな事を言わないし…しないから)」と呪文のように唱え続けながらも。
 しかし海白彩が伊藤智孝の家へ行くには、家から駅まで歩きそれから電車に乗り、さらに駅から彼の家まで歩かなければならない。
 そういった時間が夢での感覚を薄れさせていき、彼女が恋人の家に着いた頃にはいつもと同じように振る舞うことが出来た。
 男性の手がノートの上を滑る。

「で、ここはこれの応用でこうなるわけだ」
「ああ、そういうことですか。はい、解かりました」

 それを目で追っていた彩は頷くと彼を見上げ
「さすが智孝さんですね。すごく解かりやすいです」
 にこりと笑顔になった。

「そうか、それは良かった」

 同じように顔をほころばす彼と、しばし見つめ合う。いつもなら何でもないその状況が今日に限って妙に気恥ずかしい。
 これも全てあの夢のせいだと思いながら、彩は教科書へ視線を動かした。

「あ、あの。あとこれなんですけれど───」

 

 一区切りついたので休憩タイムを取ることにした二人。
「何か飲み物を持って来るから、ちょっと待っていてくれ」との智孝の言葉に頷くと彩はリビングの椅子に腰を下ろす。
 と、彼女の耳にチャイムの音が聞こえてきた。それに続く「おじゃましまーす」の明るい声。
 聞き覚えのある声に驚いているとお盆の上に紅茶を乗せて戻ってきた智孝の後ろから、白い箱を手にした女性が姿を現した。

「有羽!」

 玖堂有羽。伊藤家の隣りに住む女子高生で智孝と彩の後輩にあたり、彩の親友でもある。

「えへへ。呼ばれてないけど来ちゃいました。これ、手土産です」

 にこにこ笑いながら箱をテーブルに置く有羽の表情とは対照的に、溜め息を吐いている智孝。
 仮にも恋人同士が一緒にお茶を飲もうって時に乗り込んでくるその神経が解からない。しかも既に彩とくっつくようにして座っている。

「ね、ね、彩ちゃんはどのケーキにする?」

 女性二人組が早速有羽の手土産箱を開けて選り好みを始めていた。

「私はどれでも良いけれど…。智孝さんは何が食べたいですか?」

 問われた男性は紅茶を置きながら答える。

「彩に任せるよ」

 椅子に腰を下ろした智孝は俯いている彩を怪訝に思ったが、彼女はすぐ顔を上げるとケーキを選び相手と自分の前にそれぞれ置いた。

「ここのケーキは美味しいんだよ。私のお気に入りなんだ」

 そう笑顔で言いながら早速食べ始める有羽。彩も一切れ口に運ぶと
「あ、本当。美味しいわね」
「でしょう?」
 親友の賛同を受けて嬉しそうにする彼女に諦めの笑みを浮かべる智孝。

「(ま、このケーキで帳消しってところだな)」

 三人で他愛のない会話を楽しみながらの一時。
 共通の知り合いが多いので専(もっぱ)ら彼らを対象とした内容になる。誰々がこんな事を言ったよ、とか実は結構モテるんだ、といった話題が中心だ。
 しかし有羽が自分とばかり会話をする事を気にして、彩は智孝にも話を振る。

「そうね、でも私は…。あ、智孝さんはどう思いますか?」

 彼がそれについて答える前に有羽のふくれっ面が遮(さえぎ)った。

「いいんだよ、智孝兄ちゃんの意見は」
「え?でも…」

 困惑する彩に彼女は語気を強めて

「私は彩ちゃんとの会話を楽しみたいんだもん。兄ちゃんはさ、いつもいつも彩ちゃんを独り占めしているから今はいいの!」

 これには流石の智孝もムッとする。

「別に独り占めなんてしていないだろ」
「してるよ。私だって彩ちゃんと一緒にいたい時もあるのに、そういう時に限って兄ちゃんに取られちゃうんだもん」

 お前は学校でいつでも会えるだろう、と喉まで出かかったが自分が会えない事が未練がましいみたいで止めた。
 リビング内に不穏な空気が漂(ただよ)い始めたが、自分の不機嫌な表情を恋人に見られたくない智孝が溜め息を吐きながら立ち上がった。

「ともかく、俺達はまだ勉強が残っているからお前はもう帰れよ」

 食器を片づけながら言い、自らの気持ちを落ち着けようと彼は流しに立った。
 こちらに背を向け洗い物を始める彼の姿を見つめると、彩は視線を友人へ移し
「ごめんね。有羽だって淋しいわよね」
 突然の謝罪に、された方は驚いた。

「今まで自分を見てくれていた男性(ひと)の関心が別な女性へと移ったら、恋愛感情が無くても取り残された気分になるものね」
「え…あー。彩ちゃんが謝る事じゃないよ。私は兄ちゃんの彼女が彩ちゃんで良かったと心から思っているし。…でも」

 本当はちょっとそう思っている。ぽつりとそう漏らした。
 その言葉を受けて彩は薄く微笑む。

「そうだと思ったわ。私にも経験があるから。いとこのお姉ちゃんに恋人が出来た時に、今までいつも私を見ていた瞳が別のどこかを見るようになっていてね。可愛がってもらっていた分、それが余計に辛かったわ。子供心に」

 だから有羽も本当は智孝さんに構ってもらいたいんじゃないかな?って思っていたの。もし違ったら失礼だから言わなかったんだけれどね。
 くすっと笑う。それから少し真面目な表情になって

「でも年に数回しかお姉ちゃんに会わない私でさえそうだったのだから、毎日会っている有羽はもっと淋しかったんでしょうね」

 彩の台詞に言われた当人は大きく溜め息を吐く。

「やっぱり彩ちゃんはすごいなあ。私なんてまだまだ彩ちゃんに追いつけないや」
「そんな事ないわ。有羽はとても素敵な女性よ」

 そう微笑まれて有羽は先輩を抱き締めた。

「ありがと。あー、やっぱり智孝兄ちゃんには勿体無いよ。私が男だったら絶対彩ちゃんを恋人にするのに」

 彼女らしいお礼の言い方に彩は「ありがとう」とだけ返した。
 洗い物を終えた智孝は水道を止め、タオルで手を拭うと落ち着いた気持ちを確認して振り返る。そこには椅子に座る恋人の胸に顔を擦りつけるようにしている後輩が見えた。
 彼女らが会話をしていたのは知っていたが、水音で内容までは聞き取れずにいた。そのため何故二人がそんな状態になっているのか智孝には判らない。
 呆れつつも、羨ましいその状況をどう突っ込むべきか思案していると有羽が身体を離し立ち上がる。

「じゃあ、私は帰るね」

 そう言うと扉に向かう。見送るため彼女の側へと歩を進める彩に「ここでいいよ」とリビングのドアの前で断わり、先輩の後ろに見えるこの家の住人に声を掛けた。

「兄ちゃん。彩ちゃんのこと、泣かせたりしたら私が許さないからね。智孝兄ちゃんだからこそ彩ちゃんを任せているんだから」

 隣人の言葉に彼は短く答える。

「判ってるよ」

 その返答に大きく頷き笑顔になると彼女はじゃあね、と手を振り伊藤家を去っていった。
 パタンと玄関が閉まる音が微かに聞こえると、智孝は有羽が来たお陰で聞きそびれた事柄を恋人に尋ねる。

「彩。一つ聞いていいか」

 彼のほうへ向き直った彩の頷きを得て彼は続けた。

「俺は彩に何か不快な思いをさせたかな。心当たりが無いんだが、もしさせていたらすまない」

 何を言われているのか判らない彩は小首を傾げ、
「別に。不快なことなんてありませんよ。どうしてですか?」
 不思議そうな表情で恋人を見つめる。

「いや…。今日の彩はちょっといつもと違ったからさ。勉強の時も、さっきケーキを選んでもらった時も。何かあったような素振りをしていたから」

 彩の顔がサッと朱に染まり、そのまま俯いてしまった。

「あの、ごめんなさい。智孝さんを困らせてしまったみたいで。別に何でもないんです。ただ───」
「ただ?」

 恋人の問い掛けに小さな声で答えた。

「夢を、見たものですから」

 声に出すと朝方の幻がまざまざと蘇ってくる。
 間近に見えた恋人の顔、突然の告白、そして・・・。

「夢って、どんな?」
「公園でお弁当を食べているんです、智孝さんと。良い天気で…周りにも結構人がいて。それで、私たちは、その。互いに食べさせあったりしているんです。お弁当を」

 智孝の質問に後半はちょっと歯切れが悪くなりながらも答えた。それ以後は口をつぐむ彩に、智孝は考えを巡らせる。
 しかし今の内容だけでは弱い気がする。勉強の時に視線を逸らされたのは理解出来るとしても、ケーキを選んでもらった時に俯いた理由が判らない。何か他にあったのでは?と思い、智孝は聞いてみた。

「じゃあ、夢の中で俺に何か言われたんだ」

 ちょっとした引っかけだった。
 驚いたように顔を上げた恋人の様子にそれが『当たり』だと知った。

「い、いえ。あの。智孝さんは、た…卵焼きが食べたいと───」

 そこまで言って彼の顔を見つめているのが恥ずかしくなったらしく、また俯いてしまった。
 どうやら夢の中で自分はかなりオイシイ思いをしたらしい。
 それを羨ましいと思うべきか、それとも自分が出てくる夢を見てくれた彩を優しく抱き締めるか。
 智孝は軽く笑うとその両方を行動に起こした。
 夢に見るほど自分を想ってくれている彼女がいとおしい。
 抱き寄せると少しだけ身体を固くした腕の中の恋人に、そっと囁く。

「夢の中の俺が羨ましいよ。俺だって、もっとお前を感じていたい。有羽に独り占めをしている、なんて言われたけど全然足りない。彩にずっと傍に居てほしいんだ」

 言い終えてから少しだけ黙り込み、照れ隠しなのか取って付けたように「この後の勉強会は中止だな」と伝えた。
 怪訝そうに顔を上げる彩に苦笑を浮かべ

「いくら俺だってこんな状況では落ち着いて教えられないさ。彩には悪いが、勉強をみるのはまたの機会にしてもらおうと思うんだ」
「いえ。悪くなんて無いです。そもそも私がもっと自分をちゃんと律していれば、こんなことにはならなかったんですから。でも、こうして智孝さんの想いを聴けたんですから、私の夢もそう悪いものではないですね」

 にっこりと微笑む。
 無防備なその笑みに彼は内心呆れるしかなかった。
 まったく…。彩は自分が抱かれているのが男だと理解しているのだろうか。それとも伊藤智孝という人間は理性の塊だと信じ込んでいるのか。どちらにせよその考えを改めさせなくてはならない。「彩が見たのは予知夢だよ」と言ったらどんな表情(かお)をするのだろう。
 嬉しそうに恋人を見上げている彼女を眼下に収めつつ、そんな考えに想いを馳せながら智孝は海白彩という大切な女性を、もう一度強く抱き締めた。

END

あなたとこの空の下|桜左近

 

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