女顔というものは、性格によって「かわいがられる」か、「からかわれる」かに分かれると思う。
誰にでも笑顔を向け、人懐っこい性格ならば前者。僕はと言えば、明らかに後者の方だった。
幼い頃は、かわいいというだけでちやほやされる。
だけど小学生ともなればそれが気に食わない奴らが増え、中学生ではその思いを行動に移してきた。
そんな、何かと突っかかってくる暇な連中は、こぞって言いがかりをつけてくる。
「女みたいな顔しやがって」
だから一体何だというのだろう? 僕が女顔で、君達に何か迷惑をかけたのか?
何が目的なのかは知らないが、こちらにはいい迷惑だった。
そして、今日もその迷惑がふりかかってくる。
「あ、悪い悪い。足が長いもんでよ」
不覚にも奴らの罠にはまり、僕は前のめりに転んでしまった。
長くはない休み時間、それも人通りの少ない渡り廊下とあっては最悪な状況だ。
「しっかし、こんなのも避けられないなんて、お前本当に男か? 情けねぇな」
「ママー、僕一人じゃ立てないよー」
バカか、こいつら。
僕は心の中で毒づき、彼らを軽視しながら立ち上がる。それが彼らのプライドでも刺激するのか、眉毛をぴくりと動かして僕の胸倉をつかんだ。
「何睨んでるんだよ? 生意気だな」
そして有無を言わさず頬を殴る。大概がお決まりのパターンだった。
僕が再び倒れると、数人いる男子生徒の中の一人が可笑しそうに言う。
「あーあ、綺麗な顔が台無しだな」
「君達は2、3発殴られた方が見栄えがよくなるかもね」と言ってみたら、きっと憤慨するんだろうな。どうして彼らは自分がされたら怒ることを、平気で人にできるんだろうか? まあいいか、この世界に期待するものなんて何もない。
僕は一つ息を吐き、重い腰を上げた。
「おい、何とか言えねーのか!」
返事をする間もなく、腹部への殴打。僕はその痛みに顔を歪める。
どうせ何か言った所で、君達は聞かないだろう? 痛みを感じる中で、そんなことを思った。
もう一度顔面へ拳が飛んでくる。僕は衝撃を受ける直前に目を閉じた。……が、どうなっているのかいつまで経っても痛みは襲ってこなかった。
「あ、悪い。失敗した」
目を開けると、そこには一瞬何が起こったのかわからなくなってしまうほど、光景ががらりと変わっていた。
僕を殴ろうとしていた奴は頭を押さえて廊下に座り込んでいるし、その連中は先程発言した男子生徒の顔を見つめている。
そして、僕の足元にはバスケットボールが転がっていた。
「もうちょっと手首使わないとだめか。大会までに間に合うかな?」
手をぷらぷらと上下に振りながら、呑気にもそんなことを言っている。大会というのは球技大会のことだろう。確か彼は部活動というものをしていないはずだ。今まで同じクラスになったこともなければ、接する機会もなかったので面識はないが、僕は彼の名前を知っている。
樫倉晟。いつも人が周りにいる人気者だ。
「さっさと行けよ!」
座り込んでいた奴が樫倉に吠え立て、近くに転がっていたボールを拾い投げつける。樫倉はというと、軽くそれを受け取って疑問を投げかけた。どうも、奴の言うことを聞き入れないつもりらしい。
「何でそんなこと言われなきゃならねーの? 見られたらまずいことでもしてんの?」
「うるせーな、何もしてねーよ!」
「何もしてないなら、別に俺が早く行かなきゃならない理由もないだろ。ま、何かしてたって理由にはならないだろうけど」
ポンポンと手の上でボールを弾ませながら廊下を渡る樫倉。変な動きを見せないか、じっと睨むようにして樫倉を監視する連中たちに気付いていないのか、あっさりと僕の前も通り過ぎた。
なんだ、いかにも正義のヒーローみたいに登場したかと思ったら、そのまま退場か。
そこまで思って、僕が彼に期待をしていたことに驚き、自嘲した。
僕は何も期待しないんじゃなかったか? 樫倉だって、自ら面倒事に顔を突っ込むほどバカじゃないだろう。
「お前、怪我してんの?」
ふいに声がかけられ、僕の思考は停止した。顔を上げると彼と目が合う。そしてその視線は下に移動し、次に僕を殴った奴らへと移った。
何を見たのだろうと、彼の目が留まった所を見てみる。すると転んだ時についたであろう砂が、ズボンを白く染めていた。
「何だよ、俺達がやったって言いたいのか?」
「別に、そんなこと言ってないけど」
「遊んでたら、こいつが勝手に転んだんだけだ!」
する必要もない弁解を、微かに声を震わせながらする。こいつら、樫倉が怖いのか? かといって、彼の方は別段先程と変わった様子を見せていない。
「じゃあもう終わりにしたら?──遊んで怪我したんだろ?」
すっと樫倉の視線に射抜かれ、一瞬体を震わせる連中。そのうちのリーダー格であろう男がいきり立つ。
「さっきから変な言いがかりつけやがって。ふざけんなよ!」
「俺、変なこと言ってるか?」
血が頭に上り、樫倉に殴りかかろうとする男子生徒。しかし樫倉は奴を見ることもせずに、そんなどうでもいい問いかけを僕にした。
面倒事に関ったことといい、もしや本当にバカなのだろうか?
僕が「あぶない」と言うよりも早く、樫倉は奴の拳をかわした。いや、かわしたというよりも、相手が突き出した腕を外側へ押し返し、その腕をつかんだまま男の背後へ回っていたのだ。リーダー格であった生徒の腕は、背中でぎりりと捻り上げられている形になった。
「痛ぇ……ちくしょう! 離せよ!」
リーダーがそんな目に遭っているからだろう、仲間の一人が飛び掛ってきた。
しかしまたも樫倉に傷を負わせることは出来なかった。今度は懐に入って肘を鳩尾に打ち込み、勢いにのって腕を掴み引き下ろした。その生徒の体は綺麗に弧を描き、リーダーへと容赦なく体当たりをした。
二人は体を丸めたり、痛む部分を押さえながら何やら唸っている。
「いってぇ~」
「情けないな、お前ら。あいつは痛いなんて言ってなかったぞ?」
「何なんだ、てめぇは!」
「お、おい、ちょっと待て。あいつ、樫倉だよ。あの樫倉!」
『樫倉』
その名前を耳にした途端、連中は蜘蛛の子を散らしたように慌てて逃げ出した。何だ? あいつら、樫倉だってわかってなかったのか?
「黙って殴らせるなんてお人好しだな」
樫倉は最初の攻撃を避ける時に放ったボールを探しながら、僕にそう言った。下を見ると、ちょうど目の前にボールが転がっている。僕はそれを渡すついでに返事をした。
「別に好きで殴られてるわけじゃない。僕が反撃したところで殴られる回数が増えるだけだ。ああいうのは少し殴らせればそのうち消える」
しかし樫倉は「ふーん」と興味なさそうに呟いた。
「俺も人殴れないけど、やっぱり黙って殴られたくないな。痛いのヤだし」
「……ケンカが弱そうには見えなかったけど?」
「ああ、親父に禁止されてるんだよ。加減がうまくできてないからって」
その言葉だけでも樫倉の凄さというものが気迫として伝わり、それを表面には出さないところに底知れなさを感じた。
「君の方こそお人好しだ。僕を助けるなんて」
「俺の場合はお人好しって言わないよ。ただのバカ」
そしてにかっと笑う樫倉。
僕はこの時心底驚いた。名前を聞いただけで恐れられるほどの力を持っている者が、それを誇示せずにいるなんて初めて見たからだ。
「それに、俺はお前を助けたわけじゃないし。あいつらが俺にケンカ吹っかけてきて、勝手に逃げただけだろ? 何でか俺ってケンカ売られやすいんだよな」
言われてみれば確かにそうだ。彼は僕を庇うような仕草もとっていなければ、助けるためにケンカになったわけでもない。
でも、矛先が自分に向かうように言葉を操ったのは他でもない樫倉であった。
僕は初めて目にするタイプの人間に、何だか笑いが込みあがってきた。吹き出す僕を見て、樫倉はどこか安心したような声で話しかける。
「何だ、お前笑えるんじゃないか」
「え?」
「いつもつまんなそうな顔してるから、笑えないのかと思った」
『いつも』とくくってしまえるほど僕を見ているのだろうか?でも、何故か彼が僕を知っていたことに少なからず喜んでいる僕がいた。
「あ、そうだ! お前さ、次に話す奴に笑ってみろよ」
突然樫倉はそんな提案をした。僕が訝しげな顔をしていようがお構いなしに、彼は笑顔を浮かべて言葉をつなげる。
「その美貌なら、世界が変わるかもしれないぞ」──と。
からかわれたと思った。結局あいつも他の奴らと同じか。憤りにも似た落胆を抱え、僕はさっさと彼の前から姿を消した。
別に彼に言われたからって実行する必要はどこにもない。実行したからといって、本当に世界が変わるわけではないだろう。
──でも、何故だか心に引っかかった。
それから数日後、僕にとっての賭けがやってきた。
教室移動の授業のため、休み時間終わりぎりぎりとなって教室を出ようとした時、忘れ物を取りに来た同じクラスの女子生徒とぶつかった。その際に彼女の持っていたノートや教科書、プリントといった類の物が床に散らばる。
「あ、ごめんなさい」
なぜか敬語を使う彼女を不思議に思いながら拾うのを手伝っていると、ふいに樫倉の言葉が頭を過った。
『次に話す奴に笑ってみろよ』
この時、どうして実行しようと思ったのか僕にも未だにわからない。ただ世界が変わるかもしれないという可能性にかけてみたかっただけかもしれない。
僕は、数枚のプリントを彼女に渡す時に笑顔を浮かべてみせた。
「はい、これで全部だと思うよ」
「あ、ありがとう!」
プリントを受け取った彼女はしばらく僕の顔を見つめ、頬を赤く染めながらお礼を述べると、忘れ物をとることもせずに、ばたばたと足音を立てながら教室を飛び出して行ってしまった。
後に残された僕の方こそ、彼女がどうしてそんな行動をとったのかわからなかった。ただ、それを境に人から少しずつ話しかけられるようになった。
ある日、よく話すようになった男子生徒の中の一人がこんなことを言った。
「神谷って今まで何となく近寄りがたい感じがしたんだよな」
そうか。それでわかった。なぜ樫倉があんなことを言ったのか、そしてその言葉の意味が──
僕は、自分で自分の世界を狭くしていたに過ぎない。ちゃんと見るものを見て、考えることをすれば世界は開けるんだ。
今、僕の見ている世界は以前とはまるで違っていた。
「よ。お前、なんか最近楽しそうだな」
放課後、無性に樫倉の顔が見たくなり、彼の教室へと足を運んだ。彼には僕が来ることも、この感謝の気持ちも知っていたのか、一人きりで紅く燃える夕陽を浴びていた。そして挨拶代わりにこう言ったのである。
僕は今はもう自然に浮かべられる笑顔で彼に近づく。
「君のおかげだよ。ただ『笑ってみろ』だけだったら、きっと今はなかった」
「そっか」
樫倉は僕の気持ちを否定せずに、乗っていた机からぴょんと降りた。そして用は済んだとばかりに鞄を手に取り帰ろうとする。
「ありがとう、樫倉」
「え?」
「あの時助けてもらえて本当によかったと思ってる」
「あの時って、あれか? 俺がケンカふっかけられたやつ?」
「違うよ。あれは助けてくれたんだよ」ともう一度訂正するも、樫倉は自分のおかげとは微塵も考えなかった。
「結果としてそうかもしれないけどさ、実際に行動したのはお前だろ? 俺はただ思ったことを言っただけだし」
なんで君はこんなに凄い人なのだろうか。僕は笑いが止まらなかった。腹を抱えながら笑う僕を見て、樫倉も頬を緩ます。そして静かに口を開いた。
「晟でいいよ」
「え?」
「俺の名前、晟っての」
「晟?」
「そう。お前は?」
「聖……神谷聖」
「んじゃ、聖な」
それから樫倉──いや晟は当たり前のように僕の名前を呼び、一緒に帰るかどうかを尋ねてきた。僕は急かされているわけでもないのに、「ちょっと待ってて」と何度も言い慌てて帰り支度をした。晟はそんな僕を見てけたけたと笑う。
晟と帰っている時、何故か心が躍っていた。嬉しくてたまらなかった。
それは、これから新たに広がる世界に期待していたからかもしれない。僕の世界を変えてくれた人、その人が今日から友達なんだ。
帰りの途中、僕はそのことを告白してみた。
「実は、君が初めての友達なんだ」
「そうなのか?」
「名前で呼ばれるのも初めてなんだ」
「おお!? それは悪いことしたな」
口ではそう言ったがあまり驚いた様子はなく、どこか嬉しそうに見えたのは僕の贔屓目かもしれない。
僕はくすりと笑いを零し、言った。
「いいさ、自慢話になる」
END