天使の階段

今日も雨が降っている。
憂鬱以外の感情の持ちようが無い僕は傘を開くと学校を後にした。
雨は、嫌いだ。
視線を地面に落とすようにして歩き出す。
そんな僕を擦り抜けて雨の中でも他の生徒達は賑やかな笑い声を振りまいていた。まるで降雨も一つのイベントかのように。
だが僕には良い思い出が皆無なだけではなく、嫌な過去しか存在していない。これで雨が好きな奴がいたらお目にかかりたいものだ。
傘に当たる水滴音をも鬱陶しく思いながら帰路を進む。
視界の端にいくつかの靴が映る。顔を上げると目の前に自分と同じ制服を着た男子生徒が数名立っていた。
顔に薄い笑いを張りつけてこちらを見ている。弱者をいたぶる事が楽しみだと云う、関わりたくない性癖の持ち主達だ。
僕は視線を正面に向け彼らを無視して横を通り過ぎる。途端に声を掛けられた。

「なあ、俺たちさー、傘壊れちゃったんだよね」

振り向いて確認するまでもない。全員傘を差していたのは明白だ。
耳を貸さずにいると突然後ろから傘を取り上げられ

「傘が壊れたっつってんだろ」

何処から拾ってきたのか布の無い骨組みだけの傘を投げつけられた。
それを投げた男も僕の雨具を奪った奴も傘を手にしているのが笑える。
馬鹿馬鹿しい。
傘を取り戻そうと思うのは愚の骨頂。僕はそのまま歩き出した。
と、何かに躓(つまず)き運悪く水溜まりの中に倒れ込んでしまう。

「いやあ、悪い悪い。俺ってば足が長いからよ」

………訂正。奴らの計算通り、だ。
立ち上がろうと付いた両手を足で掬(すく)われ顔面からの落下を余儀なくされた。

「あーあ。綺麗な顔が台なしだな」

周りで起こる下卑た笑い声。
抵抗は無駄な努力だ。奴らが飽きるのを待つしかない。そう思っていると不意に笑い声が止んだ。
僕は次に来る攻撃に備えて身を固くした。が、いつまでたってもそれが来ない。しかしだからといって身体の力を抜くわけにはいかない。こいつらは人の弱みを見つける事だけには長けているのだから。
緊張を解かない僕の腕が引かれ、声が掛かった。

「おい、大丈夫か」

心配そうな男性の声。
聞き覚えのある響きに僕は視線を上げた。そこにいたのは思い通りの人物、親友の樫倉晟だった。

「晟…」

名前を呟いたきり黙る僕の顔を少し覗き込むように見ていた彼は、視線を男性陣へと移す。
怒気を孕(はら)んだその鋭さに奴らはたじろいでいた。

「お前らみたいな奴は身体で教えないと判らないみたいだな。たった一人苛めるのにもツルまないと何も出来ない根性無しは!」

ゆっくりと歩を進める晟から逃れようとジリジリと後ろに下がっていく。しかし民家の塀に阻まれてそれ以上下がれなくなると男達は顔を引きつらせ、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。

「本当、どうしようもない奴らだな」

親友は侮蔑の色を浮かべながらそう口にする。
その間に僕は道端に転がっている自分の傘を拾い上げた。
服もぐっしょりと濡れていて、傘を差す必要性が殆ど無かったが何となく惰性で掲げ親友に声を掛ける。

「じゃあ晟、僕はこれで帰るけど。助けてくれてありがとう」

集団が逃げていった方向を見ていた彼は慌てたように振り返って

「ちょっ、お前その格好で帰るのか?俺ん家で着替えていけよ」

晟の家はここからかなり近い。そして僕の家は10分以上は歩かないと着かない。
親友の好意に甘えて家にお邪魔することにした。

濡れた衣服を脱ぎ晟の服に袖を通すと、冷えていた身体がほんのりと温かくなった気がした。
制服を畳んで放り込んだ紙袋を玄関脇に置かせてもらうと、親友の部屋の扉をノックする。
返事を貰い開けると座っている親友の前には小さなテーブルと、その上に湯気の立っているカップが置かれていた。

「ちょっと大きいけど似合うじゃないか。ほら、冷めない内に飲めよ」

身長が高い晟の服は僕が着ると結果として袖が余る。ファッションに無頓着な僕は全く気にしていなかったし、もし拘(こだ)わっていたとしてもこの状況で文句を言うことはないだろう。
だが色々な意味を込めてお礼を口にする。

「ありがとう」

言われた本人は照れたように笑うと僕を座るよう促した。それに従い席に着くと美味しそうな匂いが鼻孔を擽(くすぐ)った。目の前のカップに入っている白い液体を一口すすると、どうやらポタージュスープらしい。
身体が温まるのと同時にお腹の足しにもなる、なかなかのチョイスだ。
そう思い晟に伝えると彼は嬉しそうに
「よかった、喜んでもらえて。でも実は俺は身体が冷えた時は大体これだから聖も同じで良いかな、なんてあまり深く考えていなかったんだよな」
と言っているが、これは照れ隠しだろう。心配してもらうのも結構悪くない、と内心嬉しく思った時だった。

「けどさ、聖も要領が悪いよな。あいつらに苛められそうになったら俺の名前を出せば良かったのに。そうしたらあいつら、絶対お前に手を出さな…」

ガンッ!
口にしていたカップをテーブルに強く置く。まだ半分ほど残っている中身が跳ねて手に掛かったが意に介さなかった。
言葉を遮られ、少し驚いた親友が僕を伺っている。

「君は僕にあいつらと同じになれと言うのか?」

脳裏に奴らの卑劣な行動が蘇る。
それは校舎裏でのことだった。僕がたまたま通りかかった時、苛められていた誰かを庇(かば)った男子生徒に奴らはこう言ったのだ。

『俺らは良いけどさ、寺島さんは黙っていないんじゃないかなあ』

寺島。それはこの学校でも名の知れた問題児だ。
その名を聞いて顔色が変わった男子生徒だったが、偶然にも講師が彼らに気付きその時は事なきを得た。
虎の威を借る狐。
奴らと同類になるなんて、考えただけでも吐き気がする。しかもそれを親友が勧めるのだから僕の怒りは治まりようが無かった。
だが、晟は僕を心配してそう言っただけなのだから、怒るのはいくらなんでも筋違いと言うものだ。

「ごめん、晟。僕を心配して言ってくれているだけなのに」

何とかして心を落ち着かせるとまず謝った。それからこう付け足した。

「でもいいんだ。どうせ卒業するまでの辛抱だから」

怪訝な表情を浮かべた彼がようやく口を開く。

「聖…。お前、高校に行かないのか?」
「まさか。ちゃんと行くよ。君たちと同じ高校じゃないけどね」

それは何処だと問われたので素直に答えたが、晟はその高校名を聞いたことが無いのか首を傾げている。僕は小さく笑うと場所を説明した。
交遊関係の広い晟ですら僕の志望する高校の名前を知らない。それはあの中学校から僕以外の誰もその高校に行かないことを意味していた。
彼は僕の言葉を聞いて少し考え込んでいたが、一つ大きく頷くと、こう口にした。

「決めた。俺もその高校に行くわ」

今度は僕が驚く番だった。

「えっ…。晟、自分が何言っているか判ってる?皆と離れ離れになるだけじゃなくて、今説明した通り電車に乗らないと行けないくらい遠いんだよ」

親友が不思議そうに僕を見る。

「離れ離れって大げさだな。携帯もあるし、第一俺の友人が全員あそこの高校に行くわけじゃないしな。それに電車通学って楽しそうじゃないか」

それとも聖は俺がその高校に受からないと思ってる?
そう問われて慌てて首を振る。晟の学力なら間違いなく合格するだろう。
でも、納得出来なかった。
僕から話を聞くまで学友達と同じ高校へ行くことに疑問すら抱かなかったのに、突然それを止めて聞いたこともない高校を受験すると言い出した本当の理由が聞きたい。
笑っている晟の表情とは正反対に、僕の心中には不安という負の感情がじわじわと広がっていく。
俯いたまま黙っている僕を心配したのか、親友が声を掛けた。

「もしかして俺が同じ高校に行くのが嫌なのか」
「そうじゃない。…ただ―――」

哀れに思われているのなら、立ち直れなくなる。
僕の事も僕の過去も誰も知らない高校へ行って、一からやり直すつもりで学校を選んだから誰にも言わなかった。晟は友人の多数が行く、近くの高校へ進学するだろうから彼には打ち明けても良かったが、何となく伝えるきっかけが無いまま今日に至った。
そして今、晟が僕と同じ高校へ行くと言い出した。
もしそれが苛められない為に友人の誰もいない高校へ行くことを哀れんで出た言葉なら、僕は、晟と友人ではいられなくなる。
顔を上げて親友の顔を正面から捕らえると静かに聞いた。

「僕が、可哀想だから?」
「はあ?」

妙に甲高い声が部屋に響いた。彼は問われた意味を懸命に考えているのだろう、視線が空中を彷徨(さまよ)っている。暫くして

「お前さ、俺がお前を可哀想だと思ったから同じ高校に行くって言ったと思っているのか?」

呆れた声。僕が黙ったままなのは肯定を意味すると理解したのだろう、大きく溜め息を吐いた。

「あのなあ…。俺がお前と同じ高校でもいいなって思ったのは、そっちの方が面白そうだからだよ。そりゃ、あいつらと同じトコ行ってというのも面白いだろうけどさ、今の延長だろ。それよりも新しい所で人脈広げていく方がずっと楽しそうじゃないか」

口調が熱を帯びていく。

「俺はほんのさっきまで皆と違う高校に行く選択肢があることを気付きもしなかった。けど聖がそれを教えてくれたんだ。…確かに聖は深刻な理由でその高校を選んだのかも知れない。俺が一緒に行くって言ったらお前が喜ぶかもって思ったのも事実だよ。でも、一番の理由はやっぱり面白そうだから、なんだ」

真剣に話すのは本心だからだろう。
不安が氷解していく。晟の瞳は初めて会ったあの時と何も変わっていなかった。いつも真っ直ぐ前を見ている。

「ごめん、晟。僕は僻(ひが)んでいたのかも知れない。僕にとって晟、君は特別な存在だけれど君にとっての僕は友人の内の一人に過ぎないんだろうって。僕が今日みたいに時折あいつらの標的になることも哀れまれているんじゃないかって思っていた」

大切なのは晟が僕をどう思っているかじゃない。僕が晟をどう思っているかなのに。

「本当にごめん。こんな暗い話になっちゃって。助けてもらって、こうやって親切を受けておいて…ちょっと心が緩んだみたいだ」
「お前さ、何でも自分で背負い込みすぎなんだよ。たまには甘えろよ。な?」

繰り返し謝る僕に晟はそう言って笑顔を見せた。
その器の大きさには到底叶わない。しかし僕は感嘆の思いとは別な言葉を口にした。

「もし僕が女性だったら今の言葉で絶対君に惚れていたと思うよ」
「そうか?…そうか、聖が女だったら今俺に彼女が出来ていたのか」

何故だか残念そうに言う彼に笑いが零れる。
君は本当にすごい人だ。
晟が同じ高校に行くって言った時、すごく嬉しかった。本当は一緒に通いたかったから。先へ進む一歩目も結局は晟がくれた。次は自分の足で歩みたい。

「晟、ありがとう。君が友人で良かったよ」

僕の笑顔に安心したように彼も同じ表情を浮かべた。

「やっぱり聖は笑っていたほうがいいな」

うんうんと一人頷く晟。
それから少しだけ高校受験について話し、僕は樫倉家を出た。

「それじゃあ、お邪魔しました」
「気を付けて帰れよ。あと風邪をひかないようにな」

親友のありがたい言葉に僕は笑って頷いた。
雨はいつの間にか上がっていて、雲の切れ目から夕日が差し込んでいる。
その幻想的な風景にふと晟を思い出した。
まるで太陽が厚く重たい雲を割って光を注ぐように、彼の言葉は僕にとって一筋の光明だった。

『笑ってみろよ。世界が変わるかも知れないぞ』

一番最初の光を思い出す。次々に脳裏に浮かぶ言葉の最後は

『俺もその高校に行く』

希望だった。
胸の温かさを再確認すると、少し重い手荷物を持ち直し視線を正面に向けた。

END

天使の階段|桜左近

橘右近とのリンク作品【僕の世界(とびら)を開く鍵】

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