「先輩、バレンタインで俺が言ったこと覚えてる?」
この一言で、先輩の顔はみるみる内に赤くなった。
反応から覚えていることが予想できるが、どうしても彼女の口から言わせたくなる。
先輩は俺から視線を外し、躊躇いがちに口を開く。
「覚えてるよ。チョコのお返しに期待しててって言ったことでしょ?」
「そう。で、今日は何の日でしょうか?」
「──ホワイトデー、です」
先輩、敬語になってるよ。
彼女の行動の一つ一つが愛しく、その度に理性の箍(たが)が外れそうになるのを、懸命に抑えていた。
きっと先輩は知らない。俺がこんなこと思ってるなんて。
そっと彼女の肩を抱き、自分の元へ引き寄せた。
軽く息を吸い、驚きを表す先輩。顔を伏せているけど、真っ赤になっているのがわかる。
「何だと思う?」
近距離だからと囁いたのが、先輩にとって大きな刺激になったようで、一瞬体をすくめた。
やばいな、神経が鈍ってきた。
「……言えない」
「何で?」
「恥ずかしいもん」
素直すぎる反応に、思わず笑いを零す。
「恥ずかしいことなんだ」
先輩はしまったと顔に書き、俺を見つめる。そして小さく「イジワル」と呟いた。
「恥ずかしいよ。諫美(いさみ)くんが私のこと名前で呼ぶくらいは」
意外な引き合いに、何のことかわからず、俺は不思議そうな顔をして先輩を見た。
「? 別に先輩のこと名前で呼ぶの、恥ずかしくないよ」
「そうなの? 私、てっきり恥ずかしいから呼ばないのかと思った」
最初の出会いから先輩って呼んでたから、その延長線上に過ぎなかったんだけど──もしかして、名前で呼ばれたかったのかな?
「呼んで欲しい?」
「……うん」
遠慮がちに頷く彼女の気持ちに少しも気付かなかったことを悔やんだ。
そんな償いも含め、彼女の要望に応える。
「有羽(ゆば)」
ぴくりと動いたのがわかった。
さっきの偶然の囁きよりも、有羽は何かを感じている。
「恥ずかしくない?」
「全然。有羽の方が恥ずかしそうだよ」
俺の言葉通り、有羽は相変わらず顔を赤くして目を合わせようとしない。
「有羽──顔上げて」
それは、理性を保てるぎりぎりのラインだった。
有羽の潤んだ瞳が欲望をかき立て、彼女の柔らかい唇と甘い香りが理性を麻痺させる。
何度も交わすキスは次第に深くなり、底の無い沼に堕ちていくようだった。
ハマル──ハマッテイク。
正直、自分がこんなに夢中になれると思わなかった。もっと淡白な人間だと、そう思ってた。
「ん……」
俺の背中に回していた有羽の手に力が入り、シャツが引っ張られたことで我に返った。
一度距離を置くと、視線が絡んだ。
彼女はとろんとしたような瞳を向けているが、微かな震えが伝わる。
俺は安心させるように微笑み、頬に触れる。
「大丈夫。これ以上はまだしないよ」
「え?」
「嫌なんでしょ?」
でも有羽は意外なことに、首を横に振る。
「嫌じゃない……諫美くんのこと大好きだし、触れられてドキドキするけど、嫌じゃないもん。ただ、ちょっと怖いだけ。──これくらい、ね」
彼女が示したそれは、1センチもない距離を示した指のモノサシ。
続いて慌てた様子で説明を加える。
「い、痛いっていうから。それだけ怖いの。……でも、諫美くんとなら大丈夫だろうって思うし、諫美くんにしかあげたくないし」
「ちょっとストップ──俺の方がヤバくなってきた」
一瞬にして、頭の中が沸点に達した。
有羽の恥ずかしさが伝染したのか、顔も体も熱い。
いつもからかうのは俺の方なのに、必ず最後は有羽が上をいく。
全く、天然にも程があるよ。
「諫美くん?」
これ以上少しでも触れたら抑えきれない。そう判断した俺はおもむろに有羽から離れ、ベッドの脇に置いてあったバラのブーケを差し出した。
「本当はこれがチョコのお返し」
「え? わ、いいの?」
目を丸くした人って初めて見た。
そんな下らないことを頭の片隅で思い、黙って頷いた。
「ありがとう! 嬉しい。ピンクのバラってかわいいよね」
本当に嬉しそうな様子を見て、自然と俺も笑顔になる。
「有羽のイメージに合ったから」
「ピンクが?」
「うん。本当は白だけどね。そうあって欲しいっていうのもあるよ」
俺の言ってる意味にきょとんと首を傾げる。
先程の沼から抜け切っていなかったのか、俺は口を開くと同時に彼女を抱きしめる。
「俺が染めていきたいから──染まってよ、俺に」
すると有羽はそれに答えるように俺の背中に触れ、顔を埋める仕草をとった。
そして微かに届く返事。
「諫美くんしか出来ないよ、そんなこと」
そう言った有羽は、傍らに転がったバラのような淡いピンクに染まった──
END