雨上がり

梅雨とはいえ、これで何日間降っているのだろう。
そんな溜め息が聴こえてきそうな雨の中、野田実春(のだ みはる)は近所の商店街の中を傘を差して歩いていた。

「全く…よく降るよな」

誰ともなく呟いてしまうのは、彼の心も晴れることが無いからだろう。
自分が好意を寄せている女性には付き合っている男性がいる。彼女が二人の関係や嬉しかった事柄を少しの恥じらいを交えて野田に話すのは、彼を友人としか見ていない証拠だ。
軽く息を吐く。
と、前方が少しざわついているのに気がついて、そちらに視線を向ける。
そこには女性がぼんやりと歩いている姿があった。傘を差していない為だろう、全身ずぶ濡れだった。
実春は彼女を知っていた。

「…彩!」

慌てて駆け寄ると海白彩(うみしら あや)は、きょとんとした表情で
「あ、野田くん。どうしたの?」
と訪ねる。

「どうしたのじゃないだろ!お前こそこんなに濡れて…」

その台詞に彼女は少しだけ驚いた顔になり、雨、降っていたのねとぽつりと口にした。

「ちょっと考え事をしてたから」

困ったような笑顔で言い、じゃあとそのまま立ち去ろうとする彩の腕を掴み「その格好じゃ風邪ひくぞ」を自分の家へ来るように勧めた。彼女の住まいまではここからだと、まだだいぶ歩かなければならない。
断ろうとする彩に傘を持たせて強引に引っ張り、家まで連れてくるとドアを開けた。

シャワーを浴びて野田実春の服を借りた海白彩にマグカップが差し出される。
中には暖かくて甘いミルクティ。彼女の好きな飲み物だ。

「ありがとう…」

そう言って受け取り口を付ける彩を実春は心配そうな表情で見つめていた。しかし胸中に浮かぶ疑問や質問を言葉にすることはしなかった。というより出来なかったと言ったほうが正しいだろう。
その行為は彼女を追い詰めてしまう気がしたからだ。
俺は所詮、友人だからな。
彩を支える役柄ではない、そう心の中で自嘲するとそんな感情を微塵も感じさせない口調で言葉を掛ける。

「落ち着いたか?何があったか知らないけれど、あまり心配を掛けるなよ」

すると俯いてカップを両手で包み込んでいる彩が囁くほどの小さな声でぽつりと言った。優しくなんかしないで、と。

「そんなに優しくされたら、勘違いしちゃうじゃない」

彩の様子に只事ならぬ雰囲気を感じた実春は先程の考えを変更し、何があったのかを尋ねた。
部屋に広がる沈黙。
手にしているマグカップの中身を飲み干すわけでもなく、ただその液体を眺めていた彼女はゆっくりと顔を上げる。
そこに浮かんでいたのは少し困ったような微笑み。しかし口にしたのはその表情とは裏腹なものだった。

「私ね…ふられちゃった。何考えているか解からないんだって」

実春は僅かに眉をしかめる。
相手に心配を掛けたくないのだろう、彩はどんな負の思いも笑顔で言葉にする。そしてその後に続く台詞は『大丈夫』と決まっている。
そしてそれは今回も同じだった。

「ごめんね、心配掛けて。でももう大丈夫だから」

彼女を抱き締めることが出来たら、それによって彩の気持ちが安らぐのなら実春はいくらでもするつもりだ。
だがそれは友である自分がする行為ではない。

「あいつを一途に想っていたお前がふられて大丈夫なわけが無いだろう。心配を掛けたくないと強がるのもいいけど、泣きたい時にちゃんと泣かないと心に凝(しこ)りが残るぞ」

驚いて目を見張り発言者を見つめる彩の瞳から涙が一粒、零れ落ちた。
なぜ彼はこんなにも自分の気持ちが判ってしまうのだろう。あの人から得ることが出来なかった優しさが友人である野田実春から与えられる。
自分は選ぶべき男性を間違えたのかもしれない。
後悔にも似た思いを抱えながら彩は涙を流し続けた。

「やだ…。どうした…んだろ?」

泣き止もうと努力しているのに、それに反して涙は何度拭っても溢れ出してくる。
ごめんね、と何故か謝る彼女をふわりと温かさが包んだ。
野田実春が海白彩を抱(いだ)いたのだ。

「無理に止めようとしなくていいから」

言いながら彼女を自分にもたれかからせて、そっと髪を撫でる。
その心地よさに甘え、彩は実春の胸にしがみつくようにして泣き続けた。

眠ってしまったのだろうか。
規則正しい呼吸をしている、腕の中の女性を優しく抱き締める。
実春は彩の元彼氏の名前を呟き毒づいたが、それは胸の晴れる行為ではなくただ空しさだけが心に残った。
ふう、と溜め息を吐(つ)くと

「俺なら…」

言葉を漏らす。

「俺ならお前を悲しませることはしないし、こうやってずっと抱いてやれるのに」

静かに女性の髪を撫でる。

「でも彩はそれを望んでいないのかもな。俺にはお前を見守ることしか出来ない」

こんなにも大切に想っているのに…。
相手が眠っているからこそ自らの心の内を言葉に出来る。
想い人に告白出来ない皮肉さに、少し歪んだ笑みを浮かべると女性に囁いた。

「彩。好きだよ」

抱き寄せている腕に力を込めすぎたのか彼女が身動(みじろ)ぎをする。
起こしてしまったのかと様子を伺うと、顔を赤くした彩がそこにいた。
慌てて体を離し、顔を覗き込むと大丈夫かと声を掛ける。

「熱があるんじゃないのか?」

弱々しく首を振る彼女は、何故だか実春と視線を合わそうとしなかった。その事に、もしかしたらという思いが沸き起こる。

「──聞いていたのか…?」

沈黙が二人を包む。自分の鼓動が妙に大きく聞こえる気がした。
ようやく彩は小さくもはっきりと頷き、肯定をする。

眠っていたわけではなかった。ただ、野田実春という男性の腕に抱(いだ)かれている安らぎに身を委ねていたのだ。
そんな時に聞こえてきた彼の独白。
言葉の囁きを耳にしながら、後悔の入り混じった諦めが胸を締めつける。

「(どうして気が付かなかったんだろう。私のことをこんなにも想ってくれる男性(ひと)が近くにいたのに…)」

自分の男を見る目の無さに溜め息が出る。
髪に優しく触れられると、今だけの幸せに浸った。
彼は自分の想いを面と向かって口にはしないだろうし、自身も今までのことを思い返せば実春に甘えることは出来ない。
ほんの一時だけの、幸福感。
気を緩めていた彩の耳を打ったのは実春の告白だった。その言葉に動揺して、身体が反応してしまう。
体温が急上昇する中、心配そうな声に首を振るのが精一杯で彼の顔を真面(まとも)に見ることが出来なかった。

『私、海白彩は野田実春に魅かれ始めている』
そう認めてしまうと、心が軽くなった。勿論それを伝えることなど出来ないが。
振られた───相手の理解を得ることが出来なかった───疵(きず)が癒されたことに、本心からの笑みを浮かべると海白は野田に謝る。

「心配掛けてごめんなさい。でも、本当にもう大丈夫だから」

そう言って立ち上がると、差し込んできた陽に誘われて窓辺に近付いた。

「あ。雨、止んだのね」

雲の切れ目から差し込む太陽の光は自分の心を写し出しているようで暫らくの間、見とれていた。

「止まない雨はない、か」

くすっと笑みを零すと、帰宅する為に方向転換をする。
が、すぐ真後ろに実春が立っていたので彼と正面衝突をしてしまった。小さく悲鳴を上げて後退すると、びっくりしたと胸に手を当てて彼を見上げる。
どうしたのかと問い掛けようとしたが、言葉が出て来なかった。
見たこともない彼の真剣な表情に気圧されて、ただ見つめ返すことしか出来なかったのだ。
実春の口が開き、ゆっくりと言葉を紡(つむ)ぐ。

「出会ってから、ずっとお前のことだけを見てきた。初めは友人でも良かった。彩が俺を頼ってくれる、それだけで嬉しかったから。だけど…」

口を噤(つぐ)む。視線を下に落として
「…お前が俺ではない男の事を嬉しそうに話す姿に、腹が立って仕方がなかった。何で俺の気持ちに気が付かないんだ、って」
小さく笑って続ける。

「押し殺している気持ちに気付けってほうが無理な話なのにな」

野田が何を言おうとしているのか、じっと耳を傾け続ける。
顔を上げた彼の瞳が彼女を捕えた。

「彩。これからはずっと俺の傍(そば)に居てほしい。俺にはお前が必要なんだ」

想いを知られた以上もう隠していても仕方がないしな、と笑った。
何て答えたらいいのだろう。
言葉に窮して俯く彩に、実春は今すぐに返事をしなくても良いからと口にする。

「断ったって構わないんだからな。俺だって無理に付き合ってほしくはないんだから」

その優しい台詞に首を振る。そしてようやく「私で良いの?」と聞くことが出来た。

「ずっと野田くんに迷惑を掛けてきたのに。ううん、それだけじゃない。私を想ってくれていた時に、私は他の男性(ひと)に心を寄せていたのよ。それなのに…」

そこから先は言うことが出来なかった。実春に抱き寄せられていたから。

「ばか。言ったろう?俺はお前が好きなんだって。それとも彩は俺が嫌いか?」

温かな腕の中で否定をした。「そんなことない」と。

「じゃあ答えは一つしかないな」

笑って身体をそっと離す。
返事は?との問い掛けに泣きそうな笑顔で答えた。

「はい」

END

雨上がり|桜左近

リンク作品|紫陽花(あじさい)

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