ガチャリ。
コンビニの袋を手にした部屋の持ち主が扉を開くと、中にいる人物に向かって声を掛けた。
「悪い、遅くなった」
返事が無いので怪訝に思い部屋を見渡すと玖堂有羽(くどう ゆば)がベッドの上で横になって寝ている。
待ちくたびれて布団の上でゴロゴロしていたら、そのまま眠ってしまったと云うところだろう。
「(起きている時は賑やかなのに、寝顔はこんなにも無防備なんだな)」
軽く開かれた唇は、まるで誘っているようにも見える。その感触を確かめたい衝動に駆られたが、自分の欲望を押さえ込み視線を外へと向けた。
「どう、似合うかな?」
昨年の春、智孝(ともたか)と同じ高校に受かった有羽は入学前にその制服姿をお披露目しようと彼の部屋に来ていた。
「……」
無言の彼に「智孝兄ちゃんってば!」と少し怒ったような、それでいて催促するような声が掛けられた。
「あ、ああ。馬子にも衣装だな」
「もう。どうしてそういうこと言うかなー」
頬を膨らませている彼女を見ながら、そっと心の中で冷や汗を拭う。
見とれていた。有羽の制服姿は眩しく、目が離せないほど大人びた雰囲気を醸(かも)し出していた。
もし有羽が声を掛けなければそのまま魅入っていただろう。
彼女が自分と同じ高校を受験し合格したことを一番喜んだのは多分自分自身だったが、それを表に出すことは許されない。玖堂有羽にとって伊藤智孝という男性は、ただのお隣りさんに過ぎないのだから。
不機嫌な表情は演技だったのか、今は嬉しそうに笑いながら
「入学したら一緒に登校しようね」
と同意を求めてくる。そうだな、と智孝も顔を綻(ほころ)ばせた。
一年と云う歳月は、あっという間に過ぎ去った。
最初のうちこそ毎日のように一緒に登下校していたが、次第に仲の良い友人と共に行動するようになっていった。
智孝自身も受験で忙しくなり、擦れ違いが増えて最後に有羽と登校したのは二ヶ月も前のことだ。
「(少し距離を置いたほうが良いんだろうな。…俺にとっては)」
学校内で彼女の姿をそっと探すのも今日で最後だ。
卒業式が終わって校舎を出ると、溜め息交じりにそう思った。
智孝にとって今日という日は高校を卒業するという事実の他に有羽との別れを意味していた。
高校生と大学生では生活時間が違う。付き合っていないのだから、たとえ家が隣りであっても会うことは難しくなるだろう。
ぼんやりと空を見上げていると「伊藤先輩」と声が掛けられた。
視線を下ろすと女生徒が目の前に立っていた。
「あの…。ボタン、頂けますか?」
そういえば、この娘(こ)に告白されたことがあったっけ…。
数ヶ月前に受験で忙しいからと断ったのだが、まだ彼女が自分に想いを寄せていたことに驚いた。
「いいよ」
ボタンを引きちぎるように制服から外すと彼女の手に落とした。お礼を述べて立ち去る後輩を見送って、ふと自分の手を見つめる。
引きちぎるという行為が、自分の心から有羽への想いを断ち切る感覚にあまりにも似ていたのだ。
こんなふうに簡単に想いを取り外せたら楽だろうな。
薄く笑うと、一緒に写真を撮ろうと言う同級生の誘いを断わり校門を後にした。
「智孝兄ちゃん」
背中に声が掛かる。彼をこう呼ぶのは玖堂有羽以外にいない。振り返ると確かに彼女がいた。
「はい。卒業おめでとう!」
そう言って花束を差し出す。
名前を呼ばれた時から『お隣りさん』の仮面を付けた智孝はありがとう、とお礼を口にしてそれを受け取った。
「あれれ?ボタンが取れちゃってますよ。まさかこれは古典的な告白をされちゃったんですか、お兄さん」
まじまじと制服を覗き込む有羽の頭を軽く叩き
「俺はモテるからな」
言いながら笑うと、くるりと背を向けた。歪んだ笑みを見せたくはない。
そのまま歩き出す智孝に「これから皆で食べに行くんでしょ?」。慌てた彼女の声が背中にぶつかる。
「こんな格好じゃみっともないから着替えてから行くよ。先に行っててくれ」
後ろを振り返らず手だけ振ると、あまり遅くならないでよと注意の言葉が返ってきた。
「(帰宅してから気持ちを落ち着けて皆の所へ向かったんだっけな)」
俺が来ないんじゃないかって気を揉んでいた有羽が、俺の姿を見つけた時に見せた笑顔は輝いていた。
その表情を思い出すと、今でも智孝の鼓動は高まる。
生活時間が違っても、休日には時折こうして遊びに来てくれる。彼にとってはそれだけで充分だった。
冬の寒い気温の中でホッと出来る日溜まりのような存在、それが玖堂有羽だ。
相手は自分でなくても構わないから、彼女には幸せになってほしい。
強く願う。
まだ眠りから覚めない愛しい女性が風邪をひかないように自分の上着を彼女に掛けると、智孝は窓へ近寄り太陽を振り仰いだ。
END
陽だまり|桜左近