強引|Sakon’s side

互いの息遣いが聞こえてきそうな程の至近距離。
目前に愛しい人の瞳があった。
まるで時間が止まってしまったような感覚に襲われて、身動きが取れない。
上手く呼吸が出来ない中で視界の隅に見える、曇っている空模様が心を写し出しているような気がした。
ゆっくりと相手の口が動いて静かに言葉を紡ぎ出す。

「彩(あや)先輩。今度の週末、七夕祭りに行きませんか?」

部活の無い日は、ほとんど決まっていつものメンバーが集まる小会議室に顔を出すのが通例のようになっている。
それは今日も同じだった。
皆と尽きるともない会話を楽しんで、下校時刻を過ぎた為に帰り支度をする海白(うみしら)彩に後輩が声を掛ける。他のメンバーは既に退室しているのでこの部屋にいるのは彼と彼女、二人しかいない。
神谷聖(かみや ひじり)の質問に彼女は確認の言葉を口にした。

「七夕祭りって、商店街の?」

はい、と答える聖に少しだけ考える仕種をして軽く頷くと、彼に顔を戻す。

「そうね。久し振りに行ってみようかしら」

後輩の申し出を受けると、その台詞に顔を綻(ほころ)ばす聖の表情に彼女の胸は高鳴った。優しい微笑みに見とれていると、自分の顔を見続ける彩を怪訝に思ったのだろうか、聖が「どうしました?先輩」と声を掛ける。
慌てて何でもないと否定をして帰宅準備を再開する彼女に、顔を赤く染めている理由を問うことをせず別な言葉を述べた。

「当日は浴衣を着ませんか?」

ゆかた?と、聞き返した彩は小さく首を振った。

「残念だけれど、それは無理ね。私は浴衣を持っていないんだもの。第一自分では着られないしね」

たいして残念そうではない口調で答える彼女に、

「そのことなら心配いりません。僕の母は着付けが出来ますし、新品の浴衣もありますから」

あっさりと返され「どうですか」と畳み掛けられて、彩はまた手を止め空(くう)を見つめる。こんな時でもないと着る機会はもう訪れないかもしれない、そう思うと了承の意を伝えた。
何度も遮られた彩の帰宅準備だが、ようやく帰る用意が整ったので学校を後にする。
帰路中に当日、聖の家へ伺う時間を決めて二人は別れた。

「行ってらっしゃい」

彩は玄関で見送ってくれる神谷聖の母親に頭を下げると、彼女の息子と共に通りを歩き始めた。

「神谷くんのお母さんって綺麗なのね。見とれちゃった」

着付けをしてもらい髪も結ってもらった彩は、やはり浴衣を着ている聖に感嘆交じりに語り掛けた。神谷くんはお母さん似なのねと笑いながら言った後、「でも」と小さく呟いた。

「これ、本当に私なんかが着ていいのかしら…」

彩が着用しているのは鮮やかな朱色の生地に紫陽花(あじさい)があしらわれている浴衣で、安物では無い気がしたのだ。
約束の時間に家へ向かうと、この浴衣を差し出された。母親が言うには聖の姉にと購入したが本人は全く興味が無く、今は一人暮らしをしている為にタンスの肥やしとなっているそうだ。
「着てくれる人がいてよかったわ」と言われて悪い気はしないが、『神谷聖の彼女』としては初めて会う彼の母親に緊張して笑顔で受け答えするのが精一杯だった。

年齢差のある二人の女性の間の時は和やかに流れ、初々しい恋人達は着付け師に見送られて外へ出た。
彼女が着ている浴衣の不安を口にすると、肩を並べて歩く男性が安心させるように

「勿論です。母も喜んでいましたし、僕も着てほしいと思ったから誘ったんですよ」

それに良くお似合いです、とお誉めの言葉まで貰ってしまい何だか照れくさくて小さく笑うと顔を正面に向けた。
商店街へ着くと幼少の頃に訪れた時よりも大人しくなった感じもするが、それでも屋台が出ていたりしてお祭り気分は楽しめそうだった。

二人はまず中心に位置する公園に足を向けて、そこに飾られている笹に願い事を吊るすことにした。
夕刻時なので既に色とりどりの短冊が飾られていて、緑色の笹が鮮やかに彩られている。垂れ下がる色紙(いろがみ)には「世界平和」「皆が幸せで暮らせますように」などの真面目な願い事や、「恐竜に会いたい」「動物とお話しがしたい」といった夢を語った物まで様々だった。勿論中には恋愛事が上手くいくようにという一般的な短冊や、ゲーム機が欲しいとクリスマスと勘違いしたような願い事もあったりして見る者の心を和ませていた。
海白、神谷コンビも笹の隣りに置いてある色紙とペンを手にして想いを文字にすると、願望を伝える植物に託す。
聖は手近な場所に括(くく)り付けたが、彩は人目につきにくい枝にこっそり結わいていたので好奇心を擽(くすぐ)られた後輩が「彩先輩は何を書かれたんですか?」と聞いた。

「え?…あっ、その」

と短い単語を口にしたが、少し黙った後に結局「…内緒」とはぐらかす。そして同じ質問を相手にしたが聖は

「先輩が内緒にするなら、僕も秘密にしておきます」

微笑みを浮かべながら答えた。
その後二人は互いの願い事を詮索し合う愚考はせずに屋台を回ったり、色々な場所で開かれていたイベントに参加したりして『七夕祭』を楽しんだ。
充分に堪能したので祭りの熱気から遠ざかろうと、少し歩いた所にある河原に足を向ける。夏ならばそこは花火大会の会場となり人が大勢集まるものだが、さすがに今は閑散としている。
空は曇っていて天の川どころか星も月も見えない。

「七夕って梅雨に当たるから、いつも星空が見えないのよね」

ちょっと残念、と足を止めて見上げる彩。

「そうですね」

同意をする聖に微笑みを浮かべると「でもね」と言った。

「見えなくてもそこに存在はしているのよね。昼間に星が見えないのと同じように」
「素敵な考え方ですね」

聖の言葉に彩は笑顔を照れたものに変えて、親友の受け売りなのと告白した。
そして彼女はまた空へと視線を移し、織姫と彦星は無事に会えたのだろうかと呟いた。その横顔が少し寂しげで、理由を問う。

「一年に一度しか会えないなんて辛いなって思ったの。それなのに私達は彼らに願いを叶えてもらおうなんて欲張りなんじゃないかしらって」

神谷くんと会えるのは今日だけだったらなんて考えたら、ちょっと哀しくなっちゃって。
慌てて笑顔を浮かべる彩に、七夕伝説を知っている聖は少し困ったような表情で内容を伝えた。
───天界に住まう機織りの上手な織姫と牛飼いの彦星は共に働き者だった。二人の働きぶりに織姫の父は夫婦になるように勧めた。しかし、織姫と彦星は結婚してからというもの仕事もせずに二人で過ごすことばかりに時間を費やしていた。新しい布は出来ず、牛が次々に死んでいったが二人は会うことを止めなかった。怒った織姫の父は二人を引き離して一年に一日だけ会うことを許した───。

「ちなみに雨が降って天の川の水かさが増すと、カササギが無数に飛んできてその翼を広げて橋になるそうですよ」

願いを掛けるのは別としまして、七月七日の一日しかにしか会えなくなったのは自業自得だと僕は思いますが。そう話を締め括る。
愛し合う二人が引き裂かれる話とあやふやに認識していた海白彩にとって彼の話は衝撃的で、感嘆詞を並べて聞いていた。

「神谷くんって物知りなのね。尊敬しちゃう」

こんなことでそんなに瞳を輝かされても、と思いはしたが尊敬すると言われて悪い気はしない。聖は素直に

「ありがとうございます」

とお礼を口にした。その言葉には自分と会えるのは今日だけだったら哀しい、と言ってくれた彩の想いに対する感謝も含まれている。
空にちりばめられた星の河を見ることは叶わないので、目の前を流れる現実の川を見つめる。水の音が二人の間を緩やかに擦り抜けていった。
時々垣間見える白波に誘われるように、聖は静かに決意を固める。

「彩先輩。僕達が付き合い始めて一ヶ月経ちました。それなのにあなたはいつまでも僕のことを他人行儀に苗字で呼ぶんですね」

ずっと不満に思っていたことをようやく口に出せた。
聖の隣りにいる幸せに浸っていた彩にとって、この言葉はあまりにも唐突だった。表情を強(こわ)ばらせて彼を見る先輩の腕を、聖は引き寄せた。
胸に抱(いだ)かれる形となり、少し動けば相手の唇に触れられるくらいの近さに顔を寄せられる。
彩の心中(しんちゅう)に不安がゆっくりと広がっていく。それはまるで今の雲行きに良く似ていた。曇り空にどんなに目を凝らしても星は見えないように、目の前の男性の瞳を覗いても答えが写し出されることは無かった。
目前にある彩の心配そうな顔に彼女の怯えを読み取った聖は、安心させようと口を開く。

「僕は彩先輩と離れる気はありませんよ。ただ、苗字と云う漠然としたものではなく『僕』を表わす名前で呼んでほしいだけなのです」

先輩のことも苗字から名前に変えたでしょう?
そう言われて彩の顔に安堵の表情が浮かぶ。それから少し視線を落として「ごめんなさい」と謝った。

「いきなり呼び方を変えるのって『何かがあった』事を宣伝しているみたいで、すごく抵抗があったの。でも、苗字で呼ばれることを神谷くんが気にしているなんて思いもしなかった…」

軽く目を瞑(つむ)り、深呼吸すると

「───聖くん」

囁くほどの小さな声で、それでも彼の名前を呼んだ。
火照る顔を隠すように聖の胸に押さえつけた彩の身体を、彼は両腕で包み込む。
ようやく自分が彼女に恋人として認められた気がして嬉しかったのだ。
聖の胸で「やっぱり恥ずかしい…」と呟いていた彩は、何かを思い付いたかのように顔を上げて自分を抱く男性に提案を投げかけた。それは彼にとって驚くべき内容だった。

「ねえ神谷、じゃなくって…聖…くん。私のことも名前で呼んでくれる?」

『聖』の部分だけ小声だったが、彩の口にした言葉は神谷聖の首を傾げさせるのに充分な力を持っていた。

「ですから僕は、いつも彩先輩と───」

そこまで言って遮られた。

「違う。“先輩”は私の名前じゃないもの」

『彩』という名前だけで呼んでほしい、そう願ったのだ。
これにはさすがの聖も言葉に詰まる。心持ち上を向いて軽く息を吐(は)くと、瞳の中に愛しい女性の姿を捕らえる。そして

「彩───」

言った途端、顔を背けてしまった。見ると顔が紅(あか)く染まっている。
宙に視線を這わせて、先輩の気持ちが今判りましたと口にする。

「僕は随分と大変なことを頼んだのですね」

無理に名前で呼ばなくても結構です。そう言うと照れ隠しなのだろうか、彩から身体を離して空を指し示す。

「ほら、月が見えますよ」

確かにそこには、ぼんやりと薄い雲に遮られた輪郭のはっきりしない月があった。
肩を並べて空を見上げる。

「私ね、神谷くんと幸せを共有出来ますようにってお願いしたの」

視線を月に向けたまま口にした。彼女が内緒にした、短冊に託した想いだ。
それを聞いて聖も自分が書いた文章を言葉にした。

「僕の隣りで彩先輩がずっと笑顔でいてくれますように。それが僕の願いです」

二人は視線を合わせると、そっと手を繋ぎ歩き出した。
今まで以上に心が通い合った、判りあえた喜びが恋人達の胸を暖かくしていく。
雲のカーテンから顔を覗かせた月の光が、初々しい男女を柔らかく照らし出していた。

END

強引|桜左近

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