穏やかな昼下がり。
野田実春はソファに座ってまどろんでいた。
と、スリッパの音がして声が聞こえてくる。
「遅くなってごめんなさい…。あら、実春くん。寝ているの?」
何となく起きて返事をするのもかったるかった彼は、そのまま目を閉じていた。
第一、睡眠と覚醒の狭間(はざま)にいるためにまだ頭がはっきりしていない。
ゆっくり足音が近付いてくると、
「本当に寝てる…?」
そっと髪に触れられる手の感触。暫(しばら)く頭を撫でる行為をしていたが、手が止まったと思った途端にするりと下降した。
彼女の手は実春の頬に触れて左の肩に着陸する。それと同時に右肩すぐ横の背もたれが沈むのを感じた。
怪訝に思う間もなく、柔らかいものが唇に触れる。
何だろうと思い目を開けるとそこには恋人の顔があった。
海白彩。
軽く瞳を閉じて自分の口に触れている彼女に実春は驚きを隠せなかった。
キス自体はするのが初めてというわけではない。デートの別れ際、雰囲気の流れの中、唇に触れるだけの接吻(くちづけ)ではあるが、時折彼女と交わしている。
驚いたのはその行動だ。
するのはいつも実春のほうからで彩は受け身であった。催促をすることすらしない。恥ずかしいのか、それとも別の理由でかは判らないが彼がそういう行動の前触れを起こすまで、彩はいつも通りにしている。
それについて色々思うこともあるが、彩が隣りにいることに満足していた。していると自分に言い聞かせていた。
ただ今はそういった心に渦巻く感情を無視して唇に当たる存在が現実かどうかを思案している。
「(夢でも見ているのかもな…)」
うたた寝中に願望をミてしまっただけなのかもしれない。
それならせめて今だけは浸っていたい、と開けていた目をゆっくり閉じた。
ほぼ同時に彩が実春から離れる。背もたれに掛かっていた体重も無くなったので、どうやら立ち上がったらしい。
はぁと大きく息を吐く音のあと、部屋に広がる沈黙。そして───。
ゾクッ。
野田実春の身体に電気が走った。
指の腹で唇が撫でられる。耳に届く囁くほどの声。
「実春…。あなたのことが」
すき。
彩は彼のことを呼び捨てで呼んだことが無い。そして続く告白。
実春は思わず目蓋(まぶた)を開ける。目の前には驚いた表情で固まる恋人がいた。
彼女と視線が合うと、起きてたの?と恐る恐る聞くので
「今起きた」
あながち嘘ではない答えを口にする。
顔を赤くして踵(きびす)を返し、扉へと駆け出す彩を追いかける実春。
逃げ出す女性の手を捕まえるとそのまま自らの腕(かいな)の中へ抱き込んだ。
胸に顔を押しつけられた格好になった彩の耳元で
「ごめん」
まず謝った。そして一言呟く。
「お前の事を疑っていた」
彩の身体が強ばるのを感じ、実春は抱(いだ)く両腕の力を緩めた。彼を見上げる瞳を眩しそうに見つめると静かに自分の愚かさを告白していく。
「馬鹿だよな。彩が傍(そば)に居てくれればそれで良いって言ったのに…。それが当たり前になると欲が出てきた。一緒にいることだけじゃ物足りなくなってお前に触れたくなる。心が欲しくなる。彩が俺をどう思っているのか知りたくて仕方がないのに問い掛けることが出来なくて。ただ一人でいじけていた」
彩は実春を見つめながらじっと耳を傾けている。
「彩がキスを求めないのは俺のことをもう何とも思っていないからだ、と諦めかけた時もあった」
実春の腕の中の女性が抗議の声を挙げようとするのを遮って、彼は言葉を繋げた。
「でもそんな考え方をするのは止めたよ。キスを受け入れてくれる限り彩は俺を嫌っていないだろうって。そう思い込むことで不安な気持ちを押さえ込んでいたんだ」
両腕を強く抱き締め恋人の体温を確かめる。
突然抱き寄せられた彩も何も言わず男性の胸に顔を埋(うず)めている。
彩を失うのが怖かった。ぽつりと言葉を漏らす実春は少しだけ口を歪めるようにして笑った。
「お前が誰を好きでも俺は彩が好きだって言っていたのに、一緒にいるのが当たり前になればなるほど彩が俺の隣りからいなくなることが怖くて仕方がなかった。だから彩の気持ちを知りたかった。俺を本当に好きなのかを」
何度それを言い出そうとしたか。でも結局聞けなかったよ。俺に疑う心がある限り彩が何を言ってもそれを信じられない気がしたからな。
「だからこう考えることにしたんだ。俺がお前を好きだということは事実なのだからそれで良いって。俺が俺の気持ちを偽(いつわ)らないように、彩も自分の思いに正直であればいいと思えるようになったんだ」
腕を開放して恋人の頬に手を添える。「それでも彩が俺に触れたことは夢のような気がしていたよ。希望を夢に見ただけなんじゃないかってね。だからキスをされて、名前を呼ばれて驚いた。現実なんだって気づかされたから」
さっと彩の顔が朱色に染まった。それを微笑ましく見つめて
「ごめんな。もう迷わない。彩がこれからどんな気持ちになっても俺が彩を好きでいる限りずっとお前を見ている」
ってそれじゃあストーカーになっちゃうな、と笑う実春を見上げながら彩は照れも交えて言った。
「実春…くんは私が別の誰かを好きな時はすぐに気がついたのに、どうして今の私の気持ちが判らなくなっちゃのかしらね」
「そうだな。多分彩が他の男性を見ている時は冷静に分析できたからだろう。視線の方向、表情の変化から好意を抱いている男性を見極めることはそう難しいことじゃなかった」
けれど、こと自分のことになると冷静に判断できないもんだな。溜め息を吐くように言葉を吐き出す。
そんな実春の身体に腕を回すと初めて自分から抱き締めた。
自分の事で沢山悩んでいた彼がとても愛しかった。
「あのね…。実春───くんにいつか言おうって思っていたことがあるの」
実春の胸に顔を押しつけながら「あのね」「その」と言い吃(ども)る彩にくすっと笑顔を零(こぼ)すと
「無理に言わなくてもいいよ。気負いもなく言えるようになったらその時に聞かせて貰うから」
そう言うと指先が耳に当たるように彼女の頬に手を添える。
二人の間に出来た暗黙の約束事。
その手を受けて彩は心持ち顔を上げて瞳を閉じる。今までしてきた行動と同じ動作だったが、その行為に実春は愕然とした。
「(彩はこんなにも行動に表わしていたのに、気がつかないで一人で不安がっていじけて諦めて。馬鹿だよな、俺…。ごめん。そしてありがとう。これからは彩のこと、ずっと信じていける)」
感謝と愛情を込めて野田実春は海白彩の唇に降りる。
触れるだけの接吻(くちづけ)は、今まで以上に互いの心の奥底に深く刻み込まれた。
END
いつも。いつまでも。|桜左近